写真家、中平卓馬
いまなお興味の尽きない存在

中平卓馬の没後初の大回顧展、「中平卓馬 火 – 氾濫」が東京国立近代美術館にて開催中です。大規模な展覧会としては、横浜美術館の「中平卓馬展 原点復帰 – 横浜」からおよそ20年ぶりとのことで、あれからもうそんな時間が経ったのかと感慨深い。横浜美術館での中平卓馬展はほとんど事件だった。なぜなら彼の初期作品はネガもプリントも彼の手によって焼却されてしまっていたから。そのネガの一部が2001年に見つかったことがきっかけで2003年の展覧会は実現した。横浜美術館での開催当時はまだ中平さんもご存命で、ご自宅のある綱島周辺で精力的に撮影に出られていた。ちょうどそのタイミングで写真家のホンマタカシさんと文筆家で写真評論家でもあった大竹昭子さんに中平さんについての対談という形でお話を伺う機会があったのですが、中平さんのそれまでの伝説や逸話を知った上で、それでもお二人のお話はさらに興味深く、私の中平さんへの興味は尽きませんでした。

雑誌「現代の眼」編集者だった中平さんは東松照明氏との出会いをきっかけに、写真家へ転身する。「アレ、ブレ、ボケ」と称された粒子の粗いモノクロ写真で、日本の戦後写真の転換点となった60年代末から70年代初頭にかけて活躍した写真家の一人だった。同い年の森山大道氏とは生涯の親友でありライバルでもあり、周りから「一卵性双生児」と呼ばれるほど常に行動を共にしていたという。「中平から目が離せなかった」と後に大道氏が語るほど中平さんの存在は挑発的だったようで、遺した多くの著作からも窺える通り言葉の巧みな使い手として天才肌の存在でした。それは文字だけでなく言説でも同等かそれ以上で、議論が始まれば相手を容赦なく批判し論破したといいます。彼の近くにいるには強靭な心身を持ち続けるか、遠巻きに見つめる処世術を身に付ける必要があったでしょう。軽々に近寄れば「混ざるな危険」(混ぜるな、ではない)という類いの存在だったのかもしれません。

その厳しさは、自身の写真制作においても同様で、卓越した言語能力は彼の写真表現を縛り、自意識と批判精神が自らを次第に追い詰めてゆく。新たな表現を模索せざるを得なかった彼は過去の作風を全面否定し、「ブレボケ」と決別、プリントやネガまでも自らの手で焼いてしまう。そして、詩情や情緒性を排除した図鑑のような客観性を獲得しなければならないとした「なぜ植物図鑑か」を表題作とする映像論集を上梓し、方向転換を宣言する。

世界は手によって操られる。それをきっぱりと断ち切るところに私の植物図鑑は成立する。カラー写真はその意味でもう彼岸のものなのである__「なぜ、植物図鑑か」(1973年)より

ただ、その方向転換は容易ではなかった。スランプの時期を経て、1977年、篠山紀信氏との共著「決闘写真論」を出版し、植物図鑑的写真の実践に踏み切った矢先、中平さんは急性アルコール中毒による昏睡状態に陥り、回復はしたものの言語能力と記憶に障害が残る。数年の療養期間ののち写真家として再起。紆余曲折を経て、次第に縦位置のカラー写真を撮り続けるようになる。キャリアの最初から最後まで挑発的であまりに劇的な写真家人生を歩み続けた人。昏倒し、記憶の一部と言葉を失うという事故にさえ、中平さんの意思のようなものを感じてしまう。稀有な軌跡を辿った写真家人生だと思う。

写真家が自意識を超えてアノニマスな存在になったとき、写真は写真たる力を発揮する、と中平さんは「決闘写真論」の中で説いている。大竹昭子さんは「中平さんは篠山さんのスポーティーさが羨ましくてしょうがなかったみたいよ」とおっしゃっていた。その篠山さんも今年鬼籍に入られた。空の上でお二人はどんな会話を交わしているだろう。そして森山大道氏は一人、荒野をまだ歩き続けている。

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